LOGIN絵里はバッグからカードを取り出し、梨乃の手のひらに押し付ける。「もうすぐ誕生日でしょ。好きなものを買って。私のカードを使っていいから。暗証番号はあなたの誕生日よ」車のドアを開けようとした梨乃の手が止まる。彼女は振り返り、絵里を強く抱きしめる。鼻の奥がツンと痛む。「やっぱり絵里が一番好き。安心して、絶対に遠慮なんかしないから」「それがいいわ。言ったからにはちゃんと実行してよね」絵里は微笑み、彼女の背中を軽く叩く。「じゃあ、もう行くね」梨乃は体を離すと、再びドアを開けて車を降り、ビルの中へと歩いていく。丈裕は、彼女のしなやかで美しい後ろ姿を見送りながら、目にかすかな光を宿した。ちょうどその時、着信が入る。通話を終えた丈裕の顔色が、突如として険しくなる。「絵里様、大変です」裕也に電話をかけようとしていた絵里は、丈裕の言葉に思わず動きを止め、スマホを強く握りしめる。「どうしたの?」丈裕はためらいがちに口を開く。「昼頃、港で激しい銃撃戦があったようです。傭兵たちが雪枝を連れて逃亡を図り、警察に阻止されたとのことですが……そこに、藤原社長もいらっしゃったようで。現場で爆発が起き、死傷者が出ているそうです」絵里はあまりの衝撃に、その場で凍りつき、頭が真っ白になる。しばらくしてようやく我に返ると、慌てて裕也に電話をかける。だが、電源が切られており、つながらない。健にもかけてみたが、同じくつながらなかった。一瞬にして、絵里の心はどん底へと突き落とされ、得体の知れない巨大な恐怖が彼女を包み込む。まつ毛を震わせ、無理やり感情を押し殺して言う。「すぐに港へ向かって」必死に抑え込もうとしても、声はひどく震えている。潤んだ赤い瞳には、心の底からの激しい恐怖が滲み出ている。「かしこまりました。すぐに出ます。どうかご心配なさらず」丈裕はアクセルを踏み込み、猛スピードで港の沿岸へと向かう。道中、車は狂ったようなスピードで走り続ける。本来なら一時間以上かかる道のりを、彼は強引に四十分余りに縮めて到着する。道中、絵里の心臓は早鐘のように打ち続けている。何度も裕也に電話をかけ直すが、依然として電源は切られたままだ。恐怖は刻一刻と増し、全身の震えが止まらない。いくら自制しようとしても、最悪の結末を
二人は絵里の存在に気づいていない。章の穏やかな顔に、ようやくわずかな変化が表れ、眉をひそめる。「そうやって突っかかるのが楽しいのか」梨乃は呆れたように笑い飛ばす。「じゃあ何て言えばいいの?その補償とやらを受け取れって?」先ほどまでレストランで食事をしていたのも、昨夜の出来事について話し合うため、章が無理やり彼女を連れ出したからだ。昨夜何があったのか、梨乃自身もよく覚えていない。目を覚ました時、二人は一糸まとわぬ姿で同じベッドに横たわっていた。今もまだ頭がぼんやりしていて、とにかく家に帰って眠りたかった。しかし、章は五千万円という大金を差し出し、補償だと言い放ったのだ。大人同士の一夜の火遊びよ。どちらが損をしたという話でもないし、章にそこまで気を遣われる筋合いはないわ。確かに彼に気はあるが、この状況につけ込むつもりはないし、当然、あの五千万円の小切手を受け取るつもりもなかった。「ただの火遊びでしょ。私が付きまとうとでも思ってるの?安心して、そんなことしないから」一刻も早く帰って眠りたかった梨乃は、踵を返した直後、少し離れた場所に立つ絵里と丈裕の姿を目にして、その場に立ち尽くす。今の会話、全部聞かれた?絵里は落ち着いた眼差しで、堂々と二人を見つめている。彼女の斜め後ろに控える丈裕は梨乃に視線を向け、その瞳に一瞬だけ落胆の色を滲ませる。梨乃は一瞬気まずそうな顔をするが、足早に絵里の前まで歩み寄る。「ちょうどよかった、早くここから連れ出して」絵里の腕に抱きつき、章に反応する隙すら与えず、強引に引っ張って歩き出す。車に乗り込むなり、梨乃は丈裕を急かす。「早く出して」丈裕は無言のままアクセルを踏み込み、その場を後にする。遠ざかる車を見送りながら、章は眉をひそめ、隆に電話をかけて会う約束を取り付ける。車内では、梨乃が絵里にぴったりと寄り添っている。頭の中は混乱しており、絵里に問い詰められるのではないかと気が気でない。「何も聞かないで。私にもどう説明していいかわからないの。とにかく、私は絶対に、絶対に……何も知らなかった側だから」絵里は彼女を見下ろす。「じゃあ単刀直入に聞くけど、二人はそういう関係になったの?」逃げられないと悟っていた梨乃は、がっくりと肩を落とす。「たぶん
絵里は修司の前に進み出ると、向かいのソファに腰を下ろす。「早いね。それで、私に何をしてほしいのかしら」単刀直入に切り出す。無駄な時間を過ごすつもりは毛頭ない。彼女の背後には数人のボディガードが左右に控え、誰もが背筋をピンと伸ばし、鋭い眼光を放っている。修司は彼らを一瞥し、口元に薄い笑みを浮かべる。「水原さん、これはどういう意味かな。俺に危害を加えられるとでも?」「ごめんなさいね、私の命を狙う人間が多すぎるもので。彼らがいてくれた方が安心できるの。星野さん、お気になさらず」絵里も建前を口にする術は身につけていたが、その表情は相変わらず冷ややかで、人を寄せ付けない距離感がある。修司からは常に危険な匂いが漂っており、絵里はこれ以上深く関わりたくなかった。修司は軽く口角を上げ、手を挙げて合図を送る。秀信が一冊のファイルを絵里の前に差し出す。絵里は訝しみながらもページをめくり、目を通す。なんと、新エネルギー車の共同開発の提案だった。彼女は顔を曇らせ、ファイルをテーブルに放り投げる。「これを恩返しとは言わないわ。ただの妄想よ」水原グループと星野グループはここ数年、一切の接点がなかった。それなのに、この企画書は唐突に両社の提携を求め、利益の折半を要求している。あろうことか、星野側はシステムの永久使用権まで求めていた。仮に両社の提携が解消されたとしても、星野は引き続きシステムを運用できるというのだ。修司は背もたれに深く寄りかかり、泰然自若とした態度で言う。「これは双方にとってメリットのある話だ。星野のリソースも水原に注ぎ込まれる。それに、今回の投資額は直接これくらいになる」彼は指を二本立てて見せる。二千億。確かに破格の条件だ。だが絵里は立ち上がり、あっさりと撥ね付ける。「もっと現実的なことを考えたらどうかしら。水原には、あなたと組まなければならない理由なんて一つもないわ」きびすを返して歩き出すが、二歩も進まないうちに振り返る。「恩返しの方法なんていくらでもあるわ。次に星野さんがトラブルに巻き込まれた時、私が一度助けてあげれば、それでチャラになるかもしれないわね」言い捨てるや否や、颯爽と立ち去る。修司の唇に浮かんでいた笑みが凍りつき、眼差しが冷酷なものに変わる。周囲の空気が一気に冷
裕也にしばらくまとわりつかれたが、絵里はなんとか起き上がって身支度を整え、軽く食事を済ませてから二人で家を出た。車内でも、裕也は彼女と指を絡ませて手を繋いでいる。昨夜は酒を飲んでいたはずだが、彼の顔色はすこぶる良さそうだ。車が水原グループのビルの前に静かに停まる。絵里は降りる前に念を押した。「今日はたくさんお水を飲んでね。付き合いがあっても、お酒は控えなさいよ」「絵里の言う通りにするよ」裕也は口角を上げ、目元を優しく和ませる。絵里は運転席の健に視線を向ける。「あなたからも、裕也を見張っておいてね」「かしこまりました、奥様」健は快く応じる。「じゃあ、行ってくるわ」「ああ」裕也は彼女の腰を引き寄せ、その端正な顔を近づけて唇にキスを落とす。「行っておいで」絵里は思わず頬を赤らめ、小さく頷いて車を降りる。エントランスに向かうと、丈裕がすでに待機している。彼女の姿を認めるなり、歩み寄って本日のスケジュールを報告し始める。「絵里様、十時から会議が入っております。午後は金塚副市長との会食、それからH自動車の担当者が契約の件で来社する予定です……」洗練された黒のロングワンピースに白いジャケットを羽織り、ピンヒールを鳴らして歩く絵里は、ロビーで圧倒的なオーラを放っている。すれ違う社員たちが次々と頭を下げる。「会長」絵里は軽く顎を引いて応え、専用エレベーターに乗り込む。丈裕もその後に続き、最上階へと向かう。執務室に戻り、絵里は昼に修司と会う約束を思い出す。少し躊躇いながら口を開く。「お昼の十二時頃だけど、他の予定は外しておいて。少し野暮用があるの」「承知いたしました。ですが、午後二時からの金塚副市長との会食はお忘れなきよう」「ええ」丈裕が会議の資料準備のために退出すると、絵里は裕也に電話をかける。昨夜は彼の帰りが遅く、その後ベッドで激しく求め合ったせいで、すっかり修司の件を伝えるのを忘れていたのだ。ちょうど自社のビルに到着した裕也は、着信画面を見て目を優しく和ませる。「別れたばかりなのに、もう俺が恋しくなった?」スピーカー越しに響く裕也の声は、春風のように甘く穏やかだ。絵里はスマホを握りしめ、少し緊張しながら切り出す。「お昼に修司と会うことになったの。先に
まるで相手の魅力が跡形もなく消え去ったかのように、梨乃は急に興ざめする。手に入らないものほど愛おしく思えるというのは、こういうことなのだろう。今の章に対して、そんな感情は微塵も湧かない。ただ、心の底で皮肉な気分を味わっている。章は眉をひそめる。「大したことじゃない」梨乃は心の中で鼻で笑い、シートに背中を預けて口を閉ざす。記憶にある限り、章は自分からアプローチして失敗した唯一の男だ。自分という人間は、元来ハードルの高いことに挑戦するのは好きではない。困難にぶつかっても恐れることはない。ただ、諦めることさえ知っていればいいのだ。二十分の道のりが、梨乃には果てしなく長く感じられる。狭い車内で、章から漂うかすかな香りが鼻先を掠める。彼女はいっそ目を閉じ、車が夜の街を駆け抜けるスピードだけを感じることにする。隣に座る男は、ひどく静かだ。時折こちらを見ている気配はあったが、まぶたが鉛のように重く、頭もぼんやりとしていて、目を開けて確かめる気にはなれなかった。章は彼女の冷ややかな横顔を見つめ、唇を真一文字に結ぶと、漆黒の瞳をそっと逸らす。マンションの下で車が停まった時、梨乃は静かな寝息を立てていた。いつの間にか眠りに落ちていたのだ。章は眉を寄せ、運転手に促されるまま車を降りると、反対側に回って彼女を抱き上げる。酒を飲みすぎた梨乃は、彼の胸元に顔をすり寄せ、心地よいポジションを見つけたのか、再び深い眠りにつく。長いまつ毛がまぶたに影を落とし、頬はほんのりと酒気を帯びて赤らんでいる。潤んだ艶やかな唇を前に、章の眼差しは自然と深みを増す。普段の妖艶な顔立ちが、今は嘘のように穏やかで無防備だ。章は喉仏を微かに上下させ、視線を外す。彼女を抱き抱えたままエレベーターに乗り込んでから、ふと何階に住んでいるのか知らないことに気づく。彼は梨乃に小声で尋ねる。「何階だ?」梨乃はぼんやりと目を開ける。目の前にある端正な顔立ちを見て、酷い酩酊感も相まって、夢でも見ているのだと思い込む。「私の夢にまで誘惑しに来たの?」くすくすと笑い声を漏らす。「意気地なしね。夢の中でしか来られないなんて。度胸があるなら、キスさせてよ」彼女は彼の腕を掴み、顔を上げて口づけをねだる。章は身体を強張らせたが、なぜかそ
すかさず大きな手が細い腰を強く抱き寄せる。裕也は片手で絵里をベッドへと連れ戻し、その長身で上から覆い被さる。濃い影が彼女の全身をすっぽりと包み込む。ベッドと彼の厚い胸板の間に閉じ込められ、熱を帯びた吐息が唇と歯の間で狂おしいほどに奪い合われる。絵里は顎を上げ、その情熱的な口づけに応える。この夜、甘く濃密なひとときが、二人の間で静かに深まっていった。一方、バーでは深夜二時を回り、お開きとなっていた。「章、飲んだんだから運転するなよ。運転代行を呼ぶか、俺の車に乗ってけ。車は後で誰かに運ばせればいいだろ」隆が声をかける。篠もそれに同調する。「そうよ、隆と一緒に帰りなさい。絶対に運転しちゃ駄目だからね」章は眼鏡の奥で一瞬鋭い光を放ち、穏やかな声で答える。「構わないよ。二人とも先に行っててくれ。少し手洗いに行ってくる」二人はそれ以上何も言わず、相次いで店を後にする。二人の背中を見送った後、章の視線はさりげなくあるボックス席へと向けられる。梨乃は少し飲みすぎたのか、無意識のうちに隣に座る泰樹の方へと頭を傾けている。泰樹は横を向き、彼女の顔をじっと見つめている。その眼差しは、どう見ても親密な空気を孕んでいた。「飲みすぎだよ。家まで送るから」泰樹は顔を近づけ、梨乃の耳元で囁く。梨乃は眉をひそめる。「まだまだ飲むわよ。私に勝ったからって、誰も帰れると思わないでよ!」麗奈と亜実は顔を赤らめながら、首を横に振る。「梨乃、私もう無理。明日の午後から仕事があるし、先に帰るね」「私も。ちょっと頭がクラクラする」二人は頭を寄せ合い、すっかり酔っ払っている様子だ。梨乃は人に無理を強いるのが好きではない。すっかり興ざめしてしまう。「わかった。じゃあ、一緒に帰りましょ」四人は立ち上がり、連れ立って店を出る。梨乃は二歩歩いたところで大きくよろけ、あわや転倒しかける。それを泰樹がとっさに抱きとめる。二人の身体がぴったりと密着する。「危ない、転ぶところだったよ。俺が支えて歩くから」泰樹は緊張した面持ちで言う。梨乃は顔を上げ、至近距離にある端正な顔立ちを見ると、無意識に彼を突き飛ばす。「ありがとう。でも、一人で歩けるから」バーのエントランスを出ると、外はまだ車の往来が激しい。深夜